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M・Tさん 64歳女性 無職
出身:東京都
居住:埼玉県
学歴:高校卒
家族:夫、長女(36歳)、長男(33歳)、孫2人
家族構成:祖父、祖母、父、母、妹
年収:0円(年金暮らし)

高卒で就職、結婚24歳、出産26歳。当時としては遅い方だった

– 24歳でご結婚されたそうですが、それまでは何を?

高校を出て、ふとんメーカーに就職しました。2年半勤めて、その後地元の印刷会社に転職しました。そこで出会ったのが今の夫です。

– お付き合いされたきっかけは?

入社時の歓迎会でボーリング大会をやったのですが、その時に同じレーンだったんです。それから会社の人とみんなで遊びに行ったり。グループ交際というやつですかね。でもどうして付き合うことになったのか覚えてないんです。気が合って楽だったのかもしれませんね。

– デートはどうされてたんですか?

会社から駅までバスが出ていて、帰りがいつも一緒だったのでそこでよく話しました。本当に成り行きというか、結婚式当日でも実感がなかったですよ(笑)

– その後26歳で出産された?

はい、今では早い方でしょうが、当時ではむしろ遅いくらいでしたよ。

– はじめての出産はどんなお気持ちでしたか。

私、陣痛が強くならない微弱陣痛だったんです。促進剤も打ったのですが、結局36時間もかかりました。自然分娩重視で、帝王切開をやらない病院だったので。終わった頃にはヘトヘトですよ。全身の力が入らない状態でした。

– お子さんをはじめて抱いた時はどう思われましたか?

それがあまり感動はなくて。元気でよかった、五体満足でよかったと思うくらいでした。育ったのが古い家庭だったので、一軒に家族とか親戚がいっぱいいるんですよ。小さい頃から赤ん坊の世話をして慣れていたからでしょうかね。すごく感激した覚えがないんです。

それに元々、子どもが自分の所有物とは思っていませんから。

– と言いますと?

言い方は変かもしれませんが、自分は子どもの一時預かり所みたいなものだと思っています。もちろん、成人するまでは面倒を見る。その責任はありますが、それを過ぎたら自分たちの責任で自由に生きなさいと。

– お子さんの反抗期などはありませんでしたか?

娘の方が大変だったかな。下の息子はそれほどでもなかったんですよ。母と娘は女同士になるのかもしれません。息子と夫も同じでしたし。

まぁ、反抗期には何言ってもダメですよ。今はすっかり家族仲良しです。

「女に学歴はいらない」祖父の意見が強い家庭

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– 高卒で就職を選んだのはなぜですか。

本当はやりたい仕事があったのですが、大卒でないと就けなかったので。うちは「女は大学には行かせない」という方針だったため諦めました。

– 大学に行かせないとは?

祖父が強い力を持っている、古い家庭だったんですよ。「女に学歴はいらない」と。実際、高校でさえ普通科には行かせてくれなかった。商業科、かつ地元でないとダメという条件付きでした。

– もし大学を出ていたらやりたかった職業とは?

高校の時写真部に入っていたので、写真関係の仕事ですね。新聞や雑誌のカメラマンとか。

二眼レフからはじめたカメラ通。女人禁制にもめげず写真部に

– カメラに興味を持たれたのはなぜですか?

父が持っていて、小さい頃からいじってたからでしょうか。当時は二眼レフというカメラだったんですよ。今ならコンパクトカメラから入るのが普通でしょうが、私は二眼レフ、一眼レフと使うようになって。今ではすっかりコンデジですけどね。

– それで写真部に?

入学したその日に入部届けを出しました。当時写真部は女子を取らない方針だったんですが、無理やり入ってやりました。だから女性差別もすごくて。でも3年間続けましたね。

最後まで反対してた先輩が、卒業する時に「散々いじめたのに、お前根性あるな」なんて言ってました(笑)

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– 大学に行けなかったことを今はどう思いますか?

やりたいことがやれなかったのは、やはり後悔が残りますよね。もし行けていれば、仕事の選択肢も広がったでしょうし。当時祖父は絶対でしたから、反抗などできませんでしたが。

というより、私が反抗すると母が怒られるんです。「お前の教育がなってない」と。だから我慢しました。実は最初から祖父母と同居していたわけではなく、祖母が白内障にかかったことで、長男である父の実家に戻ったんです。仕事をしていた母は、家のことと両立して大変だったと思います。

家には父の兄弟もいっぱいいましたから、母はとても苦労しました。一人だけ他人ですし、母だけが親戚中から怒られるのを何度も見ました。私だけは味方でいたいと強く思っていましたね。

就職しても、家に帰りたくないもんだから、始発から終電までわざと出歩いていました。転職したのは、そのせいで体を壊してしまったからなのですが(笑)

40年の結婚生活を振り返って。長続きの秘訣とは

– ご自身の結婚生活を振り返って、満足されていますか。

どうなんでしょうね(笑)何十年も一緒ですから、いつまでもベタベタ仲良くは難しいんじゃないかな。うちなんか常に別行動ですから。息子の野球見に行くのも別の車、一緒に映画行っても別の映画を観たり。

相手を待ったり、それによって自分の時間を奪われてイライラすることがなかったので、お互いに心にゆとりが出来たのかもしれません。ちょっとしたことですが、結果的に良かったんじゃないですかね。

ずっと味方だった母の死。自我を失い、壊れていく母を見続けて

– 人生で一番辛かったことは何でしょうか。

母が亡くなったことです。パーキンソン病になって14年、最後の3、4年は脳梗塞も起こして介護状態でした。目は開いているが何もわからない。意識がなく「ただ生きている」という状態でした。

話ができない、意思疎通ができない、徐々に壊れていく母を見続けるのはとても辛かった。ずっと苦労してきた人だから、これからやっと楽な人生になるのに。

– 亡くなられた時はどう感じましたか。

徐々に弱っていくのがわかっていましたから、覚悟はできていました。最後の日、危篤状態のため妹を呼んだのです。遠方からだったので時間がかかったのですが、妹が着いた途端に亡くなりました。不思議ですけど、待ってたんじゃないかなって思っちゃいますよね。当時は辛いだけでしたが、今思えばいい死に方だったんだと思います。
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– 今の若い方に何か思うことはありますか。

自分たちとそんなに変わらないと思いますよ。でも昔ほど自由がないかな。そもそも、正社員で雇ってくれるところがないじゃないですか。私たちの頃は、高卒だろうが正社員で転職できましたが、今の子は一回辞めると難しいですよね。それで派遣になったり。格差社会なんていいますが、確かに実感しますね。

– 今一番悩まれていることは何でしょうか。

経済面ですね。もう年金だけで、貯金もないですから。あとは健康面かな。気持ちはいつまでも若いんですが、やっぱり体はついていかないんですよ(笑) 主人も緑内障、坐骨神経痛、肺の機能も弱いみたいで悩まされています。

– 今後の目標などはありますか?

うーん……。特にないですかね。今は父の介護で手一杯で。

父も母が死んでから弱くなりましたよ。母の介護は父が中心にやっていたんですが、大変だったけど、それが生きがいでもあったんだと思います。父はお通夜やお葬式のことをまったく覚えていないんです。誰が来たとか、いまだに思い出せない。

実家は自営業なので、一日中ずっと一緒だったからケンカも多かったですが、結局仲が良かった。当時ではめずらしい恋愛結婚でしたしね。両方が寄りかかって成立していたんでしょうね。だから、支えがなくなると弱くなる。夫婦ってそういうものかもしれませんね。

Photos by Julien Belli / hibino / Sherman Geronimo-Tan / Joey