S・Tさん 65歳男性 無職
出身:奈良県
居住:長崎県
学歴:大学
家族:妻、長男、次男
家族構成:父、母、兄、弟、妹
年収:0円(年金暮らし)
25歳で大学入学、学生結婚。年収6,000万円もいる予備校講師として働く
– 大学に入学されたのが25歳ということですが。
高専に5年通い、卒業後すぐに分析機器のメーカーに就職しました。当時は売り手市場で、特に私が専攻していた機械系は人も少なく、ぜひ来てくれということで入りました。
しかし、どうしても大学に入って勉強したいという思いが消えず、3年勤めた後に退職しました。
– そこから受験勉強を?
はい。大阪の安アパートに1人で住んでいたのですが、もちろん生活もしなければいけない。朝と夜に新聞配達をしながら、空いた時間に勉強をする毎日でした。1年間猛勉強し、国立大学に合格できた時は嬉しかったですね。
– 卒業後はどのような進路に?
予備校の数学講師になりました。数学を学んだ人間が就職となると、高校の教員、大学教授、一般企業ならコンピューター関係が多いのですが、私は大学在籍時に結婚しており、さらに卒業する頃には子どもがいたため稼がなくてはならなかった。
当時は、第二次ベビーブームの子どもたちが受験期に入った頃で、とにかく受験業界は引く手あまたでした。その中でも数学はニーズがある割に教師が不足していたため、大変重宝されましたよ。
– 予備校講師時代の最高年収はどのくらいでしたか。
1,200万円くらいでした。
– 大変な高給ですね。
私で驚いてはいけませんよ。人気講師ともなれば、6,000万円くらい稼ぐ人もいましたから。
– 6,000万円!
しかし、常に生徒から評価される立場ですから大変です。ダメ講師となれば授業が減る。給料が下がる。これとの戦いですね。
新聞で見た「自給自足生活」に憧れ、長崎へ移住
– 37歳頃、長崎に移住されたとのことですが。
たまたま見ていた新聞に自給自足で生活する人が掲載されていて、すごく興味を持ちました。その人の住所が私の家から比較的近かったので、それなら1度会いに行ってみようと。実際にその生活を目の当たりにすると、自分でもやってみたいという気持ちが大きくなっていきましたね。
その方と意気投合して親しくなったのですが、ある日「長崎に行くから一緒に行かないか」と誘われたのです。迷いもありましたが、思い切って決めました。
– 奥様は何もおっしゃいませんでしたか?
それが全然反対しなかったのです。私は正直、長崎は遠いなぁと思っていました。子どももまだ小学校に上がる前。しかし妻の方から「そんなこと言ってたらいつまでたってもできないわよ」なんてけしかけられてしまいました(笑)
– 自給自足生活はどのくらいされていたのですか?
実はそれほど長くありません。2、3年ほどですかね。
– 辞められたきっかけは?
当時の家主から、家を買い取ってくれないかと言われまして。しかし、もちろんお金がありませんので、福岡で再び予備校講師として働くことにしたのです。
借金の返済が終わるまで、14、5年ほど勤めたでしょうか。
– その後、また長崎に戻られたのですね。
はい。長崎で小さな塾を開講し、高校生たちに数学と英語を教えていました。60を過ぎて年金ももらえるようになりましたし、潮時と思って数年前にそこも閉じました。
文通からはじまった妻との運命的な再会。しかしその影に、今は亡き愛する人が
– 奥様とはどこでお知り合いに?
高専に通っていた頃、同級生が中学校の卒業アルバムを持ってきて可愛いらしい子を紹介してくれたので、文通をはじめました。それが今の妻です。今は文通などする人はいないでしょうが、その頃は流行っていたんですよ。ただ、その時は1年半くらいで終わってしまいました。
– なぜですか?
向こうが手紙をまめに書くタイプではなかったんです。私は堪え性がないもので「もう辞める」と一方的に宣言してしまった。17歳の頃ですね。
– そこからどうやって再会を?
大学に通っていた頃、急にふと思い出しまして。何だか悪いことをしたなと。それでもう1度、「一方的にやめてしまってすみません」という手紙を出したのです。しかしその頃、彼女はすでに家を出ていたんですね。それが、たまたま私の住んでいた下宿から徒歩10分の場所だったのです。
– 運命的ですね。
手紙を受け取った彼女のお母さんが、私の住所を連絡して。電話があったのは手紙を送ってから2日後くらいでしたが、まさかすぐそこにいるなんて。私も驚きましたね。
– 別れていた7~8年の間に、別の女性とお付き合いされたことは?
……ありました。大学に入る前の会社の同僚です。しかし、その人は病気で亡くなってしまったんです。もし生きていたら、間違いなくその人と結婚していたでしょう。お互いに約束もしていたし、親も公認でしたから。
– 今でも忘れられませんか?
そうですね。喧嘩して、別れたくて別れたわけではないから。今でも傷になっています。妻にはひとことも言っていません。墓場まで持っていく話ですね。
趣味は勉強。分かるようになるのが楽しい
– 現在、何か趣味はお持ちですか?
しいて言えば、英語の勉強ですかね。12、3年前、塾を開講する際にはじめました。英語は欠かせない科目ですからね。数学だけでは、生徒も集めにくいので。
– 勉強が趣味とは素晴らしいですね。
最初は全然ダメで、中2くらいからやり直しました。しかし、やればやるほどわかるようになるのは楽しいですね。この間、英検準1級を取りました。
– 今までの人生で一番嬉しかったことは何ですか?
やはり大学に受かったことかな。仕事を辞め、新聞配達をしてまで受けたので。ずっと独学で、発表を見るまでは不安で仕方がなかったですが、自分の番号を見た時の感動は忘れませんよ。
中学時代の兄からのひどい暴力。死してなお消えぬ憎しみ
– では一番辛かったことは何でしょうか。
その話はしにくいんですが……。中学の頃、実家を離れて都会の学校に通うため、兄と6畳1間で暮らすことになったのですが、そこでひどい暴力を受けたのです。
– 殴られたのですか?
そうですね。顔も体も、誰が見てもわかるくらいあざだらけでした。でも助けてくれる人はいない。担任の先生も、私の顔を見て明らかに表情を変えましたが、それ以上何も言いません。近所の人も知っていたはずです。声が聞こえていたでしょうから。大人は何もしてくれないのだと思いましたよ。
– ご両親には伝えましたか?
親にとっては2人とも息子ですからね。「兄弟仲良く」「いじめはいけない」としか言いません。夏休みに帰省した際「2度とあの家には戻らない」と強く訴え、渋々承諾させました。1年以上かかりましたかね。
それ以来兄とは、親戚の法事や両親の葬式以外で会うことはありませんでした。
– 今お兄様にはどのような思いでいらっしゃいますか。
実は数年前ガンで亡くなったのですが、ようやく天罰が下ったと思っています。憎しみしか残っていない。亡くなって悲しいとは、微塵も思いませんでした。あの頃の心の傷は一生引きずっています。
幼い頃に亡くなった実母。人生の辛苦はもう十分、平穏にあの世にいきたい
– 人生において、若い方に何かアドバイスをお願いできますか。
偉そうなことは言えませんが……。私は、自分自身が才能に恵まれているとは思えません。ごくごく普通の人間です。唯一優れているとすれば、物事にコツコツ取り組めること。
若い人に限りませんが、早く、楽に目的を達成したいと考える人が多いように思います。数学でも英語でも、スポーツでも何でもそうですが、結果はすぐに出ない。とにかくはじめてみることが重要ではないですかね。
– この先、どんな人生を送っていきたいですか。
恋人を亡くしたこと、それに兄のこともあるのかもしれませんが、私は自分の人生が良かったと、生まれてきてよかったと思えない部分があります。
実の母は、妹を産んですぐに亡くなりました。私が小学1年生でした。当時の田舎には産婦人科などありませんから、1人の医者が何でも診ていた。お産の際に亡くなるのが今よりはるかに多かったんですね。もし都会に住んでいたら、母は助かっていたのではないかと今でも思います。
願うことがあるとしたら、平穏にあの世にいきたい。病気で苦しんだりせず、楽にあの世に迎えられたいという気持ちが強いですかね。自分で言うのも何ですが、人生の苦は十分経験したと思うので、これからは平穏に、楽に生きたいと思います。
Photos by Nick Kenrick / StateofIsrael / Lance Lantash