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S・Fさん 42歳男性 専業主夫
出身:福岡県
居住:福岡県
学歴:高校卒(専門学校中退)
家族:妻、長女(中2)、次女(小4)
家庭環境:母
年収:60万円
世帯年収:400万円

元パチプロ。当時の年収は300~400万円くらい

– 高校卒業後のご経歴を、時系列で教えて頂けますか。

高校卒業後、コンピューター関係の専門学校に行っていたのですが、1年で中退しました。その後工場でアルバイト。24歳くらいでメガネ店に正社員として入社し、販売の仕事を5~6年。30歳くらいから6~7年間、パチスロで生計を立てていました。

– いわゆる「パチプロ」ですね。どのくらい稼いでらしたんですか?

年収は300~400万円くらいでした。近所の目もあって、土日祭日は普通の人のフリをして休んでましたので、稼ごうと思えばもっと稼げましたね。

– どうしてやめられたのでしょうか。

ずっとできる仕事ではないですよね。仕事と言っていいのかわかりませんが。

– 続けられないというと?

あの世界って、決まり事があるんですよ。規定と言いますか。当時はそれが緩くて、リスクを取る分リターンもあったんです。でもそういう規定は変わるもので、段々稼げなくなります。厳しすぎると客が入らなくなるのでまた緩くなるんですが、まぁその繰り返しだったら、いつか稼げなくなると思っていました。

– パチンコやパチスロで勝てる人とそうでない人の違いは何ですか?

特殊な技能とかは必要ないんですよ。一番の違いは、本気かどうかですね。ただの息抜きでは絶対勝てません。たとえば、自分がやりたい台があっても、儲けられる期待値が低ければ手を出してはいけない。逆にやりたくない台でも、稼げるものならやらなければいけないんです。それを徹底的にやれるかどうかですね。遊んで儲けてるって思われがちですが、楽しいかと言われるとそこまで楽しくはないんです。

– 仕事と同じような感覚ですか?

仕事ならまだ社会から認められますけど、それが一切ないので、モチベーションの保ち方が難しい時期がありましたね。社会に役立ってるとか皆無ですから。お金を稼げるかどうか、ただそれだけですからね。

エクセルで監理するほど、パチスロはデータ勝負。座った時点で勝負は決まっている

– 儲かる台って、見てわかるものなんですか?

パッと見ではわかりません。まず店選びから始まります。店ごとのクセ、たとえば、よく出る台をどのあたりに置きがちだとか。前の週に一番へこんでいた(出なかった)台を出すようにする店もあれば、前日2番目に出ていた台を次の日は1番にするとか、いろいろあるんですよ。

そういうデータを全部収集して、エクセルに打ち込んでました。

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– すごい! データ勝負の世界なんですね。

そうですね。座る前に勝負は決まってます。ただ、期待値が高くても負けるときはあります。そういう台でお金がどんどん減っていくのは精神的にかなりきついですね。だからほとんどの人はそこで耐え切れなくてやめてしまいます。技術的なことも無関係ではないですが、練習すればすぐにできるようなレベルですよ。

– あまり派手に稼ぐと、お店の人に目をつけられるとか?

あります(笑)その辺はうまいことやり過ぎないようにしたり、お店の人と仲良くなったり。ああいう店って、まぁガラのいい人ばかりではないですよね。店員と揉めたりする人もいますが、絶対そういうことはしない。しても損するだけですから。

– わざと負けるようなこともあるんですか?

それはないですが、自分が打とうと思っていた台を他のお客さんに取られたら、素直に譲ります。それは店への配慮ですね。店からしたら、自分みたいな客はいない方がいいわけですから。

– ご結婚されたのはいつ頃ですか?

28歳です。妻との出会いは友だちのBBQパーティーでした。1年半くらい付き合いました。

– 失礼ながら、結婚後にパチプロになったことを奥さんは何も言いませんでしたか?

想像していたより反対しなかったですね。今より儲かるならいいと言っていました。今考えるとおかしいですよね。

– 奥様のご両親は?

義父は結婚後すぐに亡くなりました。義母とも、結婚式で会ったくらいであまり頻繁に交流していなかったため、そういった話をする機会がありませんでしたね。

– ご自身のご両親からは?

父は物心ついた時からいませんでした。母からは、ちゃんとした仕事をしなさいとは言われてましたね。やっぱり。

– パチプロになる前は販売の仕事をされていたそうですが、なぜ辞められたのでしょうか?

実は、とあるお客さんと揉めまして。公的な援助金で商品を購入し、それを返品するから金を返せという話になったんです。しかしそれは不正でしょうと。向こうも譲らなくて上司を呼べとなり、最終的に私が土下座しろという話になったんですね。しかしそれはできませんと。その場で家に帰って、翌日退職届を出しました。

– それはひどい話ですね。

でも今思うと、もうちょっと頭を冷やせば良かったかもしれない。難しいところですね。

母の最後の2年を介護。父は顔も知らない

– 今までの人生で、一番辛かったのはどんなことでしたか?

2年前に母が亡くなった時ですね。最後の2年間は介護をしていたのですが、本当に大変でした。もちろん、本人が一番大変だったと思いますが。最後にはもう言葉も話せない、体も動かない、食事は胃ろうという状態で。まだぎりぎり体が動く頃に、人工呼吸器をつけるかつけないかを筆談で相談しました。結局やめようと決めましたが、本当にそれで良かったのか、亡くなった時は思いましたね。

– 介護疲れ的なものはありませんでしたか?

私の場合一人でやっていたわけじゃなかったので。妻も訪問看護師の方もいましたから。でもそれでもあったかな。肉体的というより精神的に。

– 精神的にといいますと?

母が何かしらの症状を訴えるので、それを私がお医者さんに説明して、薬をもらってくるんですね。でも母は知らないものに不安があったんでしょうね。もらってきた薬を投げつけたりしました。そういうのは精神的にきますよね。どうしたらいいんだろうと。母の前ではなるべくイライラしたところは見せないように努力しましたが、それがストレスになることもありました。

– お父様は離婚されているんですか?

物心ついた時からいなかったんで、詳しいことはまったく知らないんです。

– お父様に対して、何か思うことはありますか?

特にないんですよね。最初からいないのが当たり前だったので。幼い頃は、周りの人の腫れ物に触るような態度を感じていましたが、別に私は気にしていませんでした。元々いないから、悲しいとか憎いとかいう感情もない。会ってみたいとも思いませんが。

– もし会いたいと言われたらどうですか?

会わないと思います。戸籍上は父かもしれませんが、人間としては無関係なので。遺産が10億あるとかだったら会ってもいいですけど(笑)

実は数年前、その人が生活保護を申請したらしく、家に書類が届いたんです。だから生きてることは生きてるみたいです。

子どもとはオープンな関係。自分ができなかったことをさせたい気持ちもあるが……

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– 今までの人生で一番嬉しかったことは何でしょうか。

子どもと意思疎通できた瞬間ですかね。生まれた時も嬉しかったんですが、初めてこっちがしゃべったことを理解して、笑った時が嬉しかったですね。

– お子様にはどんな大人になって欲しいでしょうか。

勉強はしといた方がいい、あとでいろいろ得だよってことをわかって欲しいですかね。ただ言い過ぎると、自分ができなかったことをやれと言っている気もするので気が引けます。

– お子様は今おいくつですか?

中2と小4です。両方娘です。

– そろそろ難しい年頃ですね。恋人ができたらどう思いますか?

むしろ連れて来いと言ってるんですよ。

– オープンなんですね。

よほど何だコイツ、って感じじゃなければ全然いいですよ。会うことがなければ、どんな相手かもわからないし。

– 娘を手放したくないというお気持ちはない?

そういう方もいるかもしれませんが、私はまったくないですね。むしろ誰とも付き合えなかったら、その方が心配ですよ。

Photos by Eduardo Merille / Curt Smith / Niklas Montelius